今年の桜は綺麗か / 文・山内マリコ
#ESSAY

今年の桜は綺麗か / 文・山内マリコ

Essay by Mariko Yamauchi
Illustration by Izuru Aminaka

 生まれ育った富山では、晴れた日はあらゆる場所から立山連峰が見える。山々は街をぐるりと覆うようにそびえ、雪化粧された姿が青空と融け合うさまは絶景だ。それは威容かつ異様でもあり、旅行でやって来る人はみな、「なんだあれは!」と一様に驚愕する。けれどわたしがその景色を意識するようになったのは、街を出て、大人になってからのことで、住んでいるあいだはいつもそこにある、おなじみの風景でしかなかった。綺麗かと訊かれれば「はい、そうですね」と答えるけれど、とりたてて感慨みたいなものはなかった。

 桜もそうだった。

 子供のころは桜を、特別ありがたみのあるものとは思っていなかった。通学路に桜並木があり、小学校から高校卒業まで都合十二年、春は満開の桜を横目に登下校をくりかえした。けれど、これといって感動した記憶がない。うつむいてとぼとぼ歩いているか、友達とのおしゃべりに夢中だったかで、ほとんど目に入っていなかった。クラス替えだなんだと、新学期は気を揉むことも多い。桜が咲いているあいだは、どうも落ち着かない。

 花が終わって葉桜に移りはじめる。祝祭感のある薄ピンク色が、黄緑色と混ざり合い、やがてかき消され、ただの緑に落ち着く。葉っぱの分量が増えていくにしたがって、平常心に戻れ、人心地つく感じがする。ランドセルを背負いながら「今年もやっと桜が終わったか」、そんなふうに思っていた気持ちの方を、むしろ鮮明に憶えている。

 それでいうと、人生でいちばんそわそわしたのは十八歳の春。地元を離れ、大阪の端っこにある大学のそばで、一人暮らしをはじめたばかりの四月だ。

 新入生にとって花見は新歓コンパを意味する。夜桜の根本にブルーシートが広げられ、わいわいがやがや、見知らぬ人に囲まれて、わけもわからずお酒を飲んだ。浮ついた気持ちと、心細さと、わたしなにやってんだろうという一抹の虚しさがないまぜになり、桜のことはよく憶えていない。二年目以降は、そういう花見には一切近づかなくなった。

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 大学を卒業すると、大阪から京都へ転居。風情があり、ほどよくコンパクトにまとまった街の規模に惹かれたものの、引っ越した直後に桜の時期を迎え、幻想は砕け散った。

 春の京都、満開の桜を求めて、とにかく人人人、どこもかしこも人で溢れんばかりになる。ちょっとコンビニへ行こうにも、狭い歩道が人で渋滞し、思うように前に進めない。「わぁ綺麗!」と急に立ち止まって二つ折り携帯のカメラを桜に向け、カシャカシャカシャカシャ、あちらこちらから無粋なシャッター音が鳴るのが、どうにも神経にピリピリ障った。自分も京都の素敵さにつられてお邪魔しているのだが、身の振り方も決まらずナーバスになっているところに、観光客の大波にさらわれたかっこうで、息も絶え絶えになった。以来、春の京都は怖くて近寄れない。

 京都を三年と少しで引き払うと、今度は東京にやって来た。小説家を目指し、文学新人賞に送る応募原稿をひたすら書く日々。バイトくらいはするつもりだったのに気づけば働いておらず、沼から抜け出せないニート状態を五年ほど送った。

 文学新人賞の募集は当日の消印有効なので、ぎりぎりまで推敲して、締め切りの日に郵便局へ駆け込むことになる。宛先に「○○文学新人賞御中」「応募原稿在中!」などと書いた茶色の封筒を窓口に出すのだけど、これがすごく恥ずかしい。「うわっ、この人、小説家になりたいんだぁ~。ヤバッ」という郵便局員の心の声が聞こえる気がした。小説を書いていることを、誰にも知られたくなかった。

 あれから十年以上経ったいまも、その頃の気持ちを昨日のことのように憶えている。なぜかと言うと、桜のせいだ。

 アパートからいちばん近い郵便局は、武蔵野市役所の前にあった。その通りは桜の名所で、四月になると咲き狂う花で空が見えなくなる。通りはむせ返るほど華やいで、いきおいこちらの気分は落ち込む。最高潮のときを迎えている桜と、最低な自分の状況との強烈なコントラストは、凹むなんてもんじゃない。当時は桜を見てもきれいとは思わず、むしろ「折ってやろうか」と凄んでやりたくなるほど憎らしかった。そういう心理状態だったのだ。

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 春先には、きまって花に意地悪する人が現れる。誰かがせっかく植えた苗を引っこ抜いたり、傘をバットみたいに振り回してチューリップの首を折ったりする人が。夕方のニュース番組の時間潰しみたいな枠で、アナウンサーがもったいぶった顔で報道する。それを見てわたしは、かつての自分の、くさくさした心を思い出す。

 三月になるとマスメディアには開花予想が飛び交い、咲けば咲いたで桜の素晴らしさは連日にわたり無条件で讃えられる。それはそのまま、開花をいまかいまかと心待ちにし、桜を美しいと感じる心が、万人に備わっている正しい感受性であり正常なコンディションなのだと、同時に発信してもいる。その疑いのない圧倒的な正しさに触れるたび、やっぱりわたしは、かつての自分の、荒れた心を思い出してしまうのだった。咲き誇る花があまりにまぶしくて、それに照らされて、自分のダメさばかりが際立つのが春ってもんなのだ。

 桜を心から綺麗だなぁと感じ、開花を待ちわび、すすんで名所へ花見に出かけ、せっせと写真に撮るようになったのは、せいぜいこの十年ってところ。衣食足りて礼節を知るではないけれど、人生が思うように軌道に乗ってようやく、桜を愛でる余裕が生まれた。

 コロナ禍になって二度目の春、今年も桜を、綺麗と思えるといいなぁ。しばらく帰れていない地元にもそろそろ帰省して、春の立山連峰をゆっくり拝みたい。

  • 山内マリコ

    小説家。2008年に「16歳はセックスの齢」で女による女のためのR-18文学賞読者賞を受賞。初の単行本は2012年『ここは退屈迎えに来て』。そのほか『パリ行ったことないの』や『選んだ孤独はよい孤独』など多数。2021年には『あのこは貴族』が映画化。自身のプライベートな視点から語るエッセイ『買い物とわたし』や『山内マリコの美術館は一人で行く派』も。