#ART&CULTURE#ARCHITECTURE

都市の風も吹き抜けた海辺の家

建築家 伊東豊雄のシルバーハット 前編

VOLUME.1

テントのような家が海に向かって佇んでいる。
1984年、バブルに沸く東京に築かれたこの小屋は伊東豊雄さんの自邸。
いや、正確には元・自邸である。住まいとしてのつとめは終えたものの、
瀬戸内海に浮かぶ大三島に再建されて、今治市伊東豊雄建築ミュージアムの資料室、
演奏会や建築のワークショップをおこなう場所として2011年にオープンした。
人や空間を仕切る壁が極端に少なくて、ちょっとふしぎな海辺の家。
軽やかで、すかすか。折りたたんでポケットに入れても重たくはなさそうだ。
なにかと「壁」が多くなってしまった時代の身体感覚に、それでも寄り添い、
ひとりひとりと社会、そして自然とをつなげる建築の底力を伊東さんに聞きました。

Photography by Yurika Kono
Edit by Yoshikatsu Yamato (kontakt)

どろぼうも驚いた開放的すぎる住宅

伊東さん自身が設計し、実際に住んでいた〈シルバーハット〉を作品集で見たときの第一印象は「開放感」でした。

娘の友達は、ビニールハウスみたいな家だと言っていたみたいです。どうも変な家だと小学校で話題になってしまって、しばらく家に友達を連れてこなくなったので困ったなと思ってたんですけど。

驚かないほうが難しいですよ。でも同時に、友達の家がこの空間だったらワクワクすると思います。

面白いことがいろいろ起きる家でしたね。月に住む7匹のたぬきが地球に舞い降りて人間に化けて生活する、なんていう物語の舞台になったりもしました。1985年に公開された川島透さんという監督の『CHECKERS in TAN TANたぬき』という映画です。たぬき役は藤井郁弥さんらチェッカーズのメンバーでした。映画の撮影に使われたということで娘はすっかり面目を回復しましたね。

SF的な想像力をかきたてる家、というのもなんとなくわかります。

ドロボウが入ろうとしたこともありました。すこし高台にあったので、玄関の手前で階段をのぼりおりする必要がありまして、ある日、僕が夜中にオフィスから戻ると、玄関のほうから背広の男が階段を降りてくるんです。やけにソワソワして。でもね、覗きかなんかだろうと思って気に留めずにいたんですよ。

まさかのスルーですか(笑)。

それで、ある朝、家で原稿を書いていたらお巡りさんがやってきたんですね。お宅か隣の家で、男が金を盗んだらしい。被害はありませんでしたかって聞くんです。いや別にないと思いますと言ったけれど、下の道路に別件で捕まっているから顔を見てください、というので階段を降りると、まさしくその男でね。「あまりにも奇妙な家で、マニュアル通りにいかないと思った」と僕の目の前で言いました。

生活のリアリティと建築

どうしてこれほどに開放的なつくりになったのですか?

日本では、80年代からバブルがはじまります。土地の値段は高騰する一方でしたが、建物は建設されても使われずに壊されることさえあった時代です。当時、仕事もそれほどなかったので、新宿近辺でよく飲み歩いては都市のスピード感を目の当たりにしていました。僕がそのときに感じていたのは、建築は仮設的なものなんだ、紙くずのように宙に浮いて、風に吹き飛ぶくらい軽いものでいいんだということです。

強固で、時代に流されないものをつくりたい、ではなかったんですね。

建築はそれだけで自立して美しく永久に存在し続けるべきだ、という考え方は建築の歴史からしても根強いものでした。だから、シルバーハットを設計したときの前後の思考を書いた1989年の「消費の海に浸らずして新しい建築はない」という題のクリティークはすごく批判されましたね。

読むと、痛烈な「パンチライン」が続出している文章ですよね。当時について、とことん具体的に書かれている部分をこそ紹介したいのですが、ここでは、結論として読める終盤の一部分だけを引用します。「ともかく生活のイメージを既存の建築空間に詰め込むことだ。そして閉塞してしまっている建築空間のあちこちに風穴を開けること、そしてそこに新しい都市の風を、空気を、光を入れてやることだ」。

そこで書いたことは、自分が感じているリアルな生活を棚に上げるのではなく、自分にとって身近な生活や社会の状況に身を浸しながら建築を考えたい、という姿勢の表明です。今の考えとは違っている部分もありますが、建築を考えるときのその立ち位置は変わっていないかもしれません。

また、1985年の文章では「東京の街を歩いていると、工事現場の仮囲いをしばしば見つけるが、時々その美しさにはっとして立ち止まることがある。」(「アルミはアルミ以上でもなく、アルミ以下でもないことを認める眼」)とあります。

〈シルバーハット〉の成り立ちについては、当時の時代性に加えて、1976年竣工の「中野本町の家」という僕の姉のためにつくった住宅の反省、という個人史的な背景もあるかと思います。その家は〈シルバーハット〉の隣に位置していましたが、開放感とは逆で、いわば「閉じている」家でした。中庭があって、そちら側には開口部がありましたが、周囲と接する建築の外側には開口部がありません。内向の時代、さらに、住宅のクライアントである姉が配偶者を亡くしてすぐのことでしたから、その心理状況と分かち難くリンクしていた住宅です。その空間に生活者の視点はなかったんです。それこそが重要ではありましたが、反動のようにして、建築は生活のためにあるはずだ、社会に対してどう建築を開いていくかを考えて〈シルバーハット〉は出来上がった気がします。

さらに当時の伊東さんの文章には「〈シルバーハット〉の設計過程で、私は絶えず、設計者としてよりも住まい手としてどこまで考えられるかを、徹底してみようと考えた。」(「風の建築をめざして」1985年)ともお書きになっています。

やはり、建築家として考えることと、1人の利用者として考えることのあいだにはギャップがありました。これは今でも課題ですね。そのときは、ギャップを解消する手だてとして、必要最低限の躯体だけをつくり、そこにいきなり住んでしまおうと思いつきます。

「躯体」とは、土台や基礎、壁、柱、床、屋根など、基本的な構造のことですね。

必要最低限の小屋組み、屋根は設計者としてつくるけれども、あとは利用者として、生活に応じて屋根の下に部屋やインテリアを付け足していくような方法ができないか、ということです。全体の統一感をさきに決めてしまうのではなくてね。

ボトムアップ式というか、そういうイメージですね。

うちのかみさんからは猛烈な反対を受けましたね。そんなことでは住めないと。結局、ディティールなどもある程度はつくることになりましたけど、自邸でなければできないくらいには、住み手としてのアプローチを徹底して考えて、試すことができました。

ディティールは、どのようにつくっていったのですか。

そのときは、とにかく「プリミティブ」ということを考えていました。ドアひとつにしても、ただ「開閉する」という原点の機能から考えて、最低限必要なものにする。「ドア」というとそれだけで、われわれのなかに固定観念が出てきますが、それをなるべく排除する。その当時、シルバーハットを見に来られた高名な建築家は、なんてディテールの下手くそな、というふうに言ったのですが、ある意味それは的確でしたね。建築の歴史が積み上げてきたディテールではなく、ひとつひとつ根底から考えたいと思って実行したのですから。

身近なものをコラージュする手法

「プリミティブ(原始的な)」という言葉がコンセプトにあるものを想像してみると、植物や土っぽい素材や色使いを思い浮かべます。これこそ先入観だと思いますが、それにしても、この家はそんなイメージからはほど遠いですよね。むしろ近未来的というか。

プリミティブと言っても、その当時における「現代のプリミティブとはなにか」という意味合いが強かったのです。僕の文章の引用にもあったように、80年代の東京では、アルミだとかスチールこそが身近な存在だと感じていました。昔の人は、森の中で木を集めて雨風をしのぐ小屋を造りましたが、現代のわれわれは、東京という森の中へ出掛けて材料を拾い集め、それで家を造ってみたらどうなるのだろうか。東急ハンズやホームセンターで買ってきた部材だとか、車の部品も使いましたね。

面白いです。

もともと敷地に存在していた母が住んでいた木造家屋の建具を一部流用してしまおう、ということもしました。とにかく、必要最低限の躯体があって、ディティールは、街や、身近な環境から集めてきたものをブリコラージュしてつくれば「現代の小屋」になるんじゃないかというような発想でした。

いわばそのDIY的な手法もまた、利用者視点のアプローチかもしれないと思いました。

そうですね。今は道具も揃っていますし、そういうことをするのは珍しいことではないですよね。住まい手自身が暮らしながらつくっていく、変えていく。これはすごく面白いことだと思います。

建築を内側から考える

聞いていて思ったのは「暮らしながら」という時間は、通常、建築家が立ち入れない領域かもしれませんね。設計というのはあくまでも計画でしょうし。

やはり、自邸だからこそできたということはあると思います。ですけれど、さきほど「ボトムアップ」という言い方をしていただきましたが、僕は住宅に限らず「建築を内側から考えていく」ということをずっとしてきたという気がします。自分の身体に近いところにまず衣服があり、家具があって、部屋があって、外部があって、というふうに内側から考えていくということです。〈シルバーハット〉では、まずヴォールトという曲面の屋根があり、身体を圧迫しない最低限のところで自分を覆っています。僕は今、マンションの中で暮らしていますが、住まいを「自分の身体を覆っているもの」というふうには考えません。

ではどのように考えるんですか?

「このなかに自分が入れられている」という感覚です。

なるほど。まず箱があって、そのなかの自分、という見方ですね。

では、どうしたら空間を自分の身体との関係で捉え直せるか。もちろんこれは、マンションでの生活においては一切考えられないことかというと、まったくそうではないと思います。テーブルや椅子といった家具、カーテンにしても照明にしても、そういった身近なものを、みなさん自分にとって好ましいものを選びますよね。設計者という立場にもなる僕ができるのは、その思考を延長させて空間そのものも考えるということです。

ファッションの例はわかりやすいですね。快適さはひとそれぞれにせよ、自分にとって「着心地がいい」と感じない服は、着る回数が減ってしまいます。たとえ無意識であっても、内側というか、身体がどう感じるかを重視しています。しかし、建築となると、そのスケールの大きさもあってか「入れられている」というような受動的な発想によって捉えてしまうのかもしれません。

建築や、空間にたいしても、本来は動物的な感受性がはたらくはずですし、そうであっていいわけです。しかし、都市というインフラのなかでは、どうしても情報によって動くことが増えてしまい、動物としての感覚を使う機会が減ってしまう。余地がないと言ってもいいかもしれません。あそこのレストランはうまいとみんなが言っているとか、どこそこのブティックは誰それがデザインして綺麗らしいとか、情報によって動き、判断するわけですね。バブルのころはもう本当に、僕も情報という水の中を泳いでいるような感じでしたけれど。

好奇心をくすぐるものに出会う喜びはありますし、情報社会を心の底から悲観することはないですが、日々「自分の身体がどう感じているのか」をゆっくり考える余白は、正直なかなかない気がします。自分の住まいを考えるタイミングを振り返っても、利便性、たとえば駅から近いか遠いか、街のイメージ、値段など、数字や情報でその良し悪しをジャッジしている側面が多いかもしれません。それらを無視することもまた、できませんけど……。

機能だけでは区切れない人々の生活

いわゆる近代主義の建築は機能によって壁で部屋を分割していますが、そのことがいつも耐えられないと思ってきました。機能によって居場所を決めてしまうわけですね。

ある空間を壁で仕切り、「〜のための場所」と意味づけする。その情報によって行動が決められてしまっている、とも言えそうです。

三陸で津波に遭った方々から、仮設住宅にせめて縁側があったら、という話を聞きました。隣に住む人と話をする場所がすこしでもあれば、と。昔の家にはそんなおおらかな場所があったんだけれども、今は、とにかく限られた箱の中に機能ごとに仕切りをつくり、同じところで寝て、同じところで食べて、という生活を建築が強いてしまう。自分がたずさわっている建築がこのように人の生活を追いやってしまっている事態を痛感したとき、やりきれない思いを抱きました。

想定外なことや非常事態にあったときにどのように対処するのが正しいか、断言することはできないと思いつつも、自分なりにケアの方法を考えたり、社会全体で、どのような対処が行われているかを観察する視点は大切だろうとも感じています。装いや、空間もまた、社会の状況によってその「当たり前」は変わってしまうんだと感じる経験がこのコロナ時代には多々あると思います。最初に〈シルバーハット〉の第一印象を「開放感」というふうに言いました。ここまでは、それが実現するまでの話を中心に聞いてきましたが、次回は、壁が少なく軽やかなこの住宅を、今、あらためて考えることはどういうことなのか、そんな視点でお話を聞きたいと思っています。

後編に続く

  • 伊東豊雄

    1941年生まれ。建築家。東京大学工学部建築学科卒業後、菊竹清訓建築設計事務所を経て、1971年に独立。日本建築学会賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、プリツカー建築賞など受賞多数。主な作品は「せんだいメディアテーク」、「台中国家歌劇院」(台湾)など。2011年には、私塾「伊東建築塾」を設立し、未来の建築を考える教育の場として活動を行う。また、自身のミュージアムが建つ愛媛県今治市大三島では、塾生有志や地域の人々とともに継続的なまちづくりに取り組んでいる。