#COOKING#INTERVIEW

日常の小さな変化に気づく、一汁一菜のすすめ。

料理研究家・土井善晴 インタビュー

日常の料理のあり方に力強い提案をした『一汁一菜でよいという提案』。
近著の『くらしのための料理学』では、わたしたちが置かれた伝統と現代の食の現状を知り、
食事の意味を理解するために、日本の食文化を各国と比較したり、
おいしさを経験するときの五感のはたらきについて、優しい語り口で、しかし、細かく分析。
料理の根本を常に問い、世に伝えてきた料理研究家の土井善晴さんに
シンプルな食生活が基盤となって育つ「小さな変化に気づく感性」について聞きました。

Photography by Ayumu Yoshida
Edit by Yoshikatsu Yamato (kontakt)

―はじめに「一汁一菜」という食事のスタイルについておさらいできればと思います。

一汁一菜とは汁飯香。味噌汁とご飯と漬物を言います。味噌汁を具沢山にすれば、おかずを兼ねますから、ご飯と具だくさんの味噌汁だけでも、一汁一菜ということになります。毎日の料理はそれで十分、という提案です。

これはストイックな決まりではなくて、余裕があれば、魚を焼いたり、おかずを付け足してもいい。ご飯ではなくパンでもいい。食事に基本のスタイルとして活用してみてください、というものです。

毎日食べても飽きないのは、味噌や素材が、人間が作ったもんじゃないからです。人工的なものはすぐに飽きてしまいますが、自然の景色を見て、もう見飽きたなんてことは起こりません。毎日同じをくりかえすことに意味があります。

だからこそ、ごくわずかな小さな変化に気づく。人間が変えようとしなくても、季節が変えてくれるし、味噌汁はいつも違うものになります。それを食べる人が、季節や人の気持ちをお椀の中に見つけることができるのです。違いに気づくことが「感性」です。同じものは二度とありません。とてもおいしいと感じる日もあれば、ふつうの日もある、でもおいしくない日はありません。

―そうして一汁一菜を実践すると、生活にはどんな変化があるのでしょうか?

それはなにより健康になるし、ダイエットにもなる。同時に、自分で「見つける力」がつく。その違いに気づくことが経験で、経験がたくさん積み重なると、見るだけで色々わかるようになるんです。経験と感覚所与が重なって、ぐっといろんなものがわかるようになる。それを悟性と言います。

そして、強い刺激は無いかもわからないけれど、日々の食事の経験は、次の世代に伝えることができるでしょ。強い刺激やとびきりおいしいものは、たまに、ご馳走を食べる日として、区別して楽しめばいい。昔は、それがお祭りやお祝いの日でした。

今はなんでも売っていてお金で買えるけれど、料理することで感性が高まり、思いやりが持てるとすれば、「料理する」ことにも意味があるとわかります。食事をシンプルにして、料理をすることが苦にならないことは、人生にとって重要なことですね。

さっと立ちあがって、味噌汁を作って、さっと片付けられる。一汁一菜は掃除や洗濯のように、あたりまえの繰り返しになる。すると生活にリズムができるし、なにより自立ができると思います。一人暮らしであっても、自分で作って自分で食べるところに、生きている実感が生まれて自足する。

―シンプルな食のスタイルを提案してきた土井さんに、今日は「足るを知る」というテーマでも話をお聞きしたいと思っています。

そうですか。でも、私は「足る」を知らん人間でしょうね(笑)。そういうことはあんまり考えてないんです。私自身は「もっと、欲しい」と思うほうが、はるかに重要やと思います。だから、満足っていうのは、ほとんどない。もっと知りたい。もっと楽しみたいと思っている。おしゃれもしたい。いい壺が欲しい。旅行に行きたい。美しいものが見たい。やりたいことをしっかりやりたいと思う。

一汁一菜にも、これで我慢しなさい、的なニュアンスはないからね。一汁一菜を基本にすれば、食事が楽しめるということです。そこに季節を取り入れる。そこにお肉をプラスするということ。すごい贅沢とか、必要以上に刺激的な味付けなんていう要素がなくっても、感受性が豊かになれば満足はいくらでもできるんです。

―どういうことでしょうか?

それは、素材に触れて、一汁一菜を続ければ、おのずからわかってくることなんですけどね……。日本の食文化のコンセプトは「無いから有るを知る」ということです。なにか違うものを発明するとか、見つけるという「進化」じゃないんです。

人間は、いつも新しいものに注意が引かれる傾向にありますが、そうして進化し続けると、必ず行き詰まる。それが現代ですね。「進化」ではなく、一見同じようなもののなかにでも、小さな変化に気づくこと。その気づきを喜ぶことです。日本の文化は人間存在の「深化」を目指しているのです。「進化」と「深化」では、音は同じでも、まったく意味はちがいます。

和食の根っこには、何もしない、という哲学があります。姿や色はそのままがよい。できたら味もつけたくない。そういう姿勢が原点にある。今さかんにクリエーションと言われて、これまでになかったものを作ろうとしているけれど、それは、西洋的なクリエーションの考え方ですね。日本におけるクリエーションとは人間存在の深化です。そうしたことをきちんと理解して、区別して生きていかないと、へんてこりんなものになってしまうんです。

―考え方によって、なにを「満足」だと捉えるかが変わってきそうですね。

日常に楽しみや喜びはたくさんある。それを気づくか、気づかないかという違いです。

西洋では、肉を焼いてミート皿(プレート)に置く、サラダを乗せて、ソース(バターなど)があって、マスタードを添える。食べる人は、ナイフとフォークを持って、肉を食べやすく切って、塩をつけたり、サラダと混ぜたり、ソースをからめたりして食べている。それって料理でしょう。つまり彼らは、食べる人が自分で料理をしながら食べているのです。目の前におかれた皿(プレート)は、まな板なんですね。それは中世から今も変わらない。

だけども、日本の場合、食べる行為は受け身でしょ。だから、何にも気づけなかったらダメなんです。料理に向き合って、季節とか、変化とか、気持ちとか。いろんなことを自分で発見して、感じとることが食べるということです。

日本では、たとえば、冬の大根やほうれん草が並ぶ食卓に、ふきのとうを見つけて、苦味を感じたら、もうすぐ春が来るなって……そういう季節だなあと感じることが大事なんです。人工的な味付けのおいしいまずいよりも、もっと重要なことです。自然を受け取る、気づく、そして想像を巡らすことが、和食(日本文化)におけるクリエーションなんですね。変化を認識する。心に、ぽんと、くさびを打つ。美しい言葉にすることが俳句。そういうクリエーションの日常が「もののあわれ」です。

―西洋では、こちらから自然にアプローチをするけれど、日本では、自然からなにかを受け取って、移り変わる風物に想像をめぐらすと。どっちが優れているではなく、矢印の向く方向が違うというか……。

ヨーロッパは人間中心主義で、日本は自然中心主義にあります。知ったらいいと思うのは、この全然違う二つの考え方が、私たちにはどっちも備わっていると言うことです。我々には真逆な考え方の両方を理解できるということです。すでに矛盾しているのですね。

それを「曖昧」と言っているのですが、いえいえ、整理がついていない、そもそもわかっていないんです。それを区別することで、有効に使うことができます。私たちの強い武器になるんですよ。それをただ都合良く表面的な言葉にするんじゃなくて、身体的に活かすんです。

たとえば、「素材が大事」っていう言葉を聞くでしょう。

―よく聞きます。

ああ、そうか、素材そのものでいいな。ということは分かりますね。

―はい。

でも、別のひとが「料理はクリエーションだ」って言ったとするでしょ。

―それはそれで、なんとなく納得しますね。

でも、どっちやねんと(笑)。

―たしかに(笑)。

どちらも都合に応じて言っている。頷くほうも、そのとき次第でしょう。ただその場その場で、自分に都合よくごちゃごちゃしているんだとしたら、ぜんぜんダメな状態です。

子供の頃から身近に哲学があるフランス人は、自分が何者なのか、それをちゃんとわかっている方が多いと思いますね。自分が生まれ育った国で受け継がれてきた哲学や文化を知っていて、矛盾がない。自分の料理についても語ることができる。でも、日本では「こっちのほうがおいしいと思います」で、理由は「なんとなく」なんですね。その「おいしい」に土台がない。味の好みだけで、判断の基準が自分の中にないわけです。

―たしかに、味つけやテイストを、好き嫌いで判断することはできますが、その文化や、ルーツについては、話せるほど知らないかもしれません……。

でもですね、私が講演会や大学で話をしてみると、風物や自然を感じとる気持ちっていうのは、誰もが持っている。習ってもないけれど持っているんですね。びっくりするほどです。

私らの暮らしぶりが、そうなわけですね。挨拶だってそう。「ええ、お天気ですね。でも、朝夕はまた寒くなるみたいですから気をつけてくださいよ」とか、天気の話をする。手紙を書くにしても、自然に触れる。自然が中心にあることを私らは常に認識していて、本来、それが起点になって行動が決まっていると。

でも、日々の料理を考えるとき、そこが抜けてしまうんですね。いろんなものがありすぎるから、楽しみはいっぱい作ってきたんだけども、根本にある自然は忘れがちになる。それが悔しいといつも思ってきました。まずは、頭の中のごちゃごちゃした状態をきれいに整理することですね。そうしたら生きやすくなるやろうな、と思いますね。

―自分たちの食文化や、そこに浸透している哲学的な部分をあらためて意識してみると、今からでも、和食にたいして新鮮な発見がありそうです。

そうですね。すこし話が変わりますけども、海外旅行は、特別な経験ですよね。でも、普段の暮らしの土台がなかったら、驚きはあっても、それは役に立たない経験になってしまう。

でも、基本になる軸を持って、毎日小さな蓄積をいっぱいしておくと、外国に行くにしても、自分のポジションから見ることができて、違いに気づくっていうのができてくるわけです。すると、その違いから、自分で何かを考え始めることができるはずです。

友達に振る舞ってもらった料理や、お店で食べる食事なんかもそうですね。外食を何千回経験しても、基準がなければ言葉はぶれる。なにがなんだかわからない。たった1回の、よそで食事した経験をもとに毎日の食事を考えるのではなくて、一汁一菜という土台があるからこそ、よその1回がより豊かに感じられる、発見できるようになる、というふうに考えたらええと思います。

―ところで、一汁一菜は、和食の原点的なスタイルではあるというものの、土井さんはお味噌汁をパンと組み合わせる提案もしていたり、味噌汁の具材には、ベーコンが入っていたりもします。柔軟さ、気楽さがある。

和食ってくくりは、別にどっちだっていいんです(笑)。なにをもって和食とするか、ということですね。たとえば、アスパラガスを湯がいた。それに鰹節としょうゆをかけたら「アスパラガスのお浸し」っていう名前になるでしょ。でも、ドレッシングをかけたら「アスパラガスのサラダ」。でも、それが和食か洋食か、区分けっていうのは、家庭の料理を考えるときは要らないんです。

大事なのは、季節にあるものを、ああ、春だから芽が出てくるものを食べたらいい、っていうことを知っていて、自然としっかり、つまり地球としっかりつながっていて、初めて、イマジネーションがはたらくこと。

「こだわる」って言葉も、ぜんぜん好きではないですね。こだわりはない、って状態がいちばんいい。場所に応じて自分は変化する、というほうがいい。一汁一菜はそれです。いつでもどんなふうにでも変化させられる。でも、根っこはあるし、地面(地球)とつながっているということがすごく大事です。

  • 土井善晴

    1957年2月生まれ。料理研究家。十文字学園女子大学招聘教授、東京大学先端研客員研究員、甲子園大学客員研究員、学習院女子大学講師。スイス・フランスでフランス料理、味吉兆(大阪)で料理修行。1992年においしいもの研究所設立。料理研究家として、人が生きていくうえで最も大切な食事として、お料理とはなにか・人間はなんで料理するのか・人間とはなにかを考える「食事学」・「料理学」を広く指導。和食の観念から「一汁一菜」を提唱。「一汁一菜でよいという提案」(新潮社)、「くらしのための料理学」(NHK出版)、政治学者・中島岳志との共著「料理と利他」(ミシマ社)、別冊太陽「土井善晴」(平凡社)など。