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褒め言葉から考える、日常という舞台。

劇作家・演出家 平田オリザ インタビュー

演劇が好んで取り上げてきた劇的なドラマではなく、
淡々とした日常を題材に「現代口語演劇」をつくりあげ、
世界の演劇界に影響を与え続けている劇作家・演出家の平田オリザさん。
劇作家として話し言葉に向き合い、
日本におけるコミュニケーションを紐解いた『わかりあえないことから』は、
2012年の出版以降、今も読みつがれるロングセラー。
そんな平田さんに「褒め言葉」をキーワードに話を聞きました。

Photography by Natsuki Kuroda
Edit by Yoshikatsu Yamato (kontakt)

―褒め言葉をについて考える前に、まず、平田さんから見た日本のコミュニケーションの特徴を教えて下さい。

僕は演劇教育やコミュニケーション教育をやってきて、「対話」と「会話」をきちんと区別しようと言ってきました。対話はDialogueで、会話はConversationです。

日本では、Dialogueを「対話」と訳したために日本語の辞書を引くと「一対一で話すこと」や「向かい合って話すこと」といった定義しか出てこない。僕なりに考えた本質的な定義は、「会話」は親しい人たち同士のお喋りで、「対話」は異なる価値観を持った人との擦り合わせ。よく知ってる間でも価値観にずれが生じると「対話」が起こります。

日本の子どもたちは、おしゃべりは得意でも話し合いは苦手だと言われています。決してコミュニケーション能力が下がっているという訳ではありませんが、社会が多様化して異なる価値観を持つ人々がともに生活をすることになる。「会話」だけでは社会が持たなくなってきました。

―「会話」と「対話」の違いを、劇作家である平田さんがつよく意識するのは何故でしょうか?

演劇は、そもそも対話を要求する芸術なんですよ。たとえば、お母さんとお父さん、姉と弟がちゃぶ台を囲んで話しているとする。そこにあるのは会話です。話はいくらでもできますが、観客から見たとき、なかなか有効な情報は出てこない。たとえば、お父さんの仕事は何か、観客にはいつまで経っても分からない。なぜなら、子どもが「お父さんの仕事ってなに?」と聞くわけにはいかないからです。その質問にはリアリティがないですよね。

では、劇作家はどう考えるかというと「他者」を登場させる。たとえば、お姉ちゃんの恋人が来る日だと設定して、お母さんが恋人に「近頃銀行も大変なんです」と言ったとしたら、奥に引っ込んでいるお父さんは銀行に勤めている、という情報が伝わります。もちろん今時ですから、実はお母さんがバリバリの銀行員だったりしてもいいんですけど。いずれにしても、他者を登場させないと演劇において有効な情報は出てこないということです。

16歳だった少年・平田オリザさんが
自転車に乗って世界一周旅行に挑戦し
あらゆる問題にぶつかっていく冒険記。

平田オリザさん主催の劇団「青年団」の新たな本拠地として、
2020年に兵庫県豊岡市に誕生した「江原河畔劇場」。

―日本で対話が難しいのは、「他者」があまりいなかったために対話が発生してこなかったということですね。

そうですね。日本社会は島国でムラ社会。もとはと言えば、みんなで田植え、草刈り、稲刈りをしないといけない稲作文化でした。小麦は家族経営ができますが、米は集団で頑張らないといけない。価値観や行動をともにする集団には強いコミュニケーション能力が培われます。「日本人ならわかってよ」とか。これって、とても高度なこと。僕はこれを「察しあう文化」と言ってきました。

一方で、ヨーロッパは、大雑把に言えば、異なる価値観や文化的な背景を持ったうえで背中合わせになっています。だから、自分が何者で、何を愛し、何を憎み、どんな能力を持って社会に貢献できるか、きちんと言葉で説明しないといけない。

―文化的な背景によって、察しあう日本と、説明しなければならないヨーロッパという、それぞれのコミュニケーションのあり方ができたと。

こうした違いは、文化の違いであって優劣があるわけではありません。言葉は、人工的に作られるものです。日本では、明治期に、ディベートや裁判の言葉、大学の授業の言葉、あるいは政治の言葉、演説の言葉が作られました。

しかし、それは富国強兵や経済成長といった大きな目標があって、それを大勢の人に広めて従ってもらう言葉です。価値観を伝えるといっても一方的なもので、価値観を刷り合わせるような「対話」ではありません。つまり「対話」の言葉は作ってこなかったんです。これが、今日の本題である「日本語には、対等な立場での褒め言葉が少ない」という問題にもつながっています。

―確かに、対等な立場での褒め言葉は少ないかもしれません。

日本語では、立場が上の人から下の人に「よくやった」というのと、下から上に「すごいですね」ということはある。しかし、対等な関係性での褒め言葉は少ないと言われています。英語には、GoodNiceMarvelousUnbelievableなど褒め言葉はキリがないほど沢山あるし、フランス語もそうです。

「ナイスピッチ」とか「ナイスショット」といった外来語や和製英語は翻訳できないですよね。「上手い!」では、偉そうに聞こえてしまう。そういう意味で、日本語は非常に褒めるのが難しい言語なんです。

―唯一あるのは「かわいい」ですね。

はい。汎用性があって非常に便利なので、一気に広まりました。よく、私も含めた中高年の男性が若い女性に「君たちはボキャブラリーがないな、かわいい、かわいいばかり言って」と言いますが、ボキャブラリーがないのはこっちの方。

高級なブティックでは別ですが、一般的なショップではお店の方がお客さんに「かわいい」と言っても、それほど失礼になりませんよね。これって、ほぼ唯一なんです。たとえば「お綺麗ですね」って、なんとなく下から上に言う感じがする。つまり、対等な褒め言葉が少ないという日本の欠点を「かわいい」は相当補ってきたと。こういう語彙は増やしていかなきゃいけないですね。

江原河畔劇場の前を流れる円山川

―褒め言葉は、異なる価値観っていうのをすり合わせる「対話」でも有効な言葉のでしょうか?

そうですね。言葉には「緩衝材」が常に必要です。言語学には「冗長率」という概念があって、あるセンテンスや段落に、どれぐらい意味伝達と関係のない言葉が入ってるかを率で表します。会話は冗長率が高いと思えますよね。ところが、会話は親しい人同士のお喋りなので、冗長率は意外と低い。最も低いのは、長年連れ添った老夫婦などです。

―一言ずつで、すべてが通じてしまうような関係ですね。

はい。他方、対話は冗長率が高くなります。「おたくがおっしゃることは分かりますけど、どうでしょうか? まあ私としてはですね……」って何も意味を伝えていませんよね? つまり、さまざまな緩衝材がある。だから対話には時間がかかります。

今まで、日本語教育は冗長率を低くする方向に教えてきました。書き言葉の教育はそれで良かったのですが、話し言葉はそうでもない。話がうまい人は、冗長率が低くて論理的に話せる人ではなくて、冗長率が操作できる人ですよね。

―「話がうまい」という人って、本題のみを話すというよりは、前置きや雑談を織り交ぜるのも上手な印象があります。

そうですよね。冗長率が高ければ高いほどいいわけでもありません。その場に応じて、冗長率が切り替えられるかどうか。たとえば、ファッションのお店でもいわゆる接客がうまい人は、おそらく、お客さんに合わせて冗長率を適度に合わせられるんです。急いでいる人にいくら褒め言葉をたくさん伝えても「いやいや、私急いでるんですけど」となりますよね(笑)。上手な人は、知らず知らずのうちに暗黙知で冗長率を操作しているんです。

―ここまでの話でいうと、日本語でのコミュニケーションでは緩衝材は不足しがちなのでしょうか。

そういう傾向はあると思います。たとえば、高校生や大学生と一番よくやるワークショップのひとつに「電車の中で知らない人に声をかけるか」という設定があって、一応、例を見せてから3人一組で演じるのですが、高校生はなんの手続きもなしに、いきなり「旅行ですか?」と急いでしまう。冗長率が低いんですね。

お互いを知っている人としかコミュニケーションをとったことがないので、手続きに慣れていない。子どもたちのコミュニケーション能力が低下しいてるというよりは、そもそも、価値観の異なる他者に出会う場所が少なくなっているのは確かだと思います。

―やはり「他者」の存在がキーになっているんですね。

はい。余談ですが、今は、進学校ほどアルバイトが禁止らしいです。グローバルハイスクールと言ってるのにアルバイト禁止というのが、僕は本当に意味がわからない。子どもたちは社会に出る前に、一体どこで他者性を得る準備をするのでしょうか? 近所付き合いはないし、家の中でも少子化で兄弟がいない。学校で一年間留学に行かせるというカリキュラムがあったりもするけれど、一人一人別々の学校に行かせるならいいですが、そんな学校はありません。

だから僕は、演劇という、フィクションの力でどうしても他者であらざるをえなくなる、意見が異ならざるをえなくなるような状況設定をして、他者への想像力を持ってもらうということをしています。

―演劇教育というのは、そういう意味で「対話」を体験する機会になるんですね。日常の会話や、仕事でのコミュニケーションを考えるうえでも冗長率という概念は補助線になってくれそうです。

そうですね。さらに言えば、「日常」をどう捉えるかにもよりますが、日常会話とフォーマルな会話があったとすると、その中間領域が、今どんどん広がっています。広がっていない人も多いけれど、広げていかなきゃいけない領域だと思います。そういった場は、文化政策の世界では「コモンズ」や「サードプレイス」と言われます。要するに、家庭と職場以外のもう一つの場所が必要になってきている。そのとき、当然、コモンズやサードプレイスを支える対話の言葉が必要なんですよ。

わかりやすい例でいうと、中高年の男性が定年退職した後、なかなか社会に馴染めないとする。企業での上下関係を引きずったまま地域社会に出ても、自慢話をするしかない。これは、サードプレイスの言葉を持ってないということです。

―ひとつの役割でのコミュニケーションにしか慣れていないと。

そうですね。演劇のワークショップは、フィクションを取り入れて、演じたことがない新しい役割を演じてみる、という機会です。人間は、本来はいろんな役割、ペルソナ(仮面)を持っています。ただ一つの仮面が重すぎると、からだや心が傾いてしまう。

今の子どもでいうと、学校での仮面が重すぎるんです。昔は学校だけじゃなくて、ドラえもんの原っぱみたいな世界があった。学校で嫌なことがあっても、お兄ちゃんやお姉ちゃんに甘えられる自分がいる。無邪気に遊ぶ自分、甘えられる自分、しっかりしなきゃいけない自分。これを繰り返すことで、人格が形成されていくんです。今は学校での時間が長くて学童や部活がある。放課後もラインで繋がっていたりしますよね。すると、ずっとひとつのキャラクターを演じ続けないといけないから辛いですね。

―洋服を変えるように役割を変えたり、行く場所を変えたりすることは、結果的にさまざまなバリエーションのコミュニケーションともつながっていくかもしれません。

そうなんです。だから「ファッション」というのは非常に重要なんですね。それは、ただ単に産業や消費の場というよりも文化の場所。たとえば、ショップは、価値観が異なる他者の社交の場でありえるかもしれない。どう見られてるかを意識すること。それはとても大事ですよ。他者の存在を意識することになります。

沖縄にシュガーホールという成功した大きな音楽ホールがあり、音楽監督の方と話していたとき「シュガーホールが出来て、なにが変わりましたか?」と聞いたら、街の人のファッションセンスが変わったと。要するに、晴れの場ができて、他者と出会う場が出来たから、きちんと服を着てコンサートに月に一回行くようになった。そういうメリハリが大事なんですよね。

  • 平田オリザ

    1962年、東京都生まれ。劇作家、演出家、劇団「青年団」主宰。芸術文化観光専門職大学学長。江原河畔劇場・こまばアゴラ劇場芸術総監督。国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業し、1994年初演の『東京ノート』で翌年第39回岸田國士戯曲賞を受賞、ほか受賞多数。主著に『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』『現代口語演劇のために』『演劇のことば』、そして20227月に『ともに生きるための演劇』が刊行。