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ART FOR EVERYONE

あなたとアートの関係を示すために

VOLUME.5

美術館に所属せず展覧会を企画し、その実現まで、
作品の読み取りやアーティストとの対話を重ねる「インディペンデント・キュレーター」。
若手ながらも数多くの展覧会を企画している長谷川新と、
90年代の日本アートシーンを第一線で走りながらも渡米、臨床心理士の資格を取り、
新たなアートのアプローチを探る西原珉。
今回はファッションシーンでも長く注目度の高い写真家、
ヴォルフガング・ティルマンスについて。

Photography by Yuri Manabe [portrait]
Edit by Yoshikatsu Yamato (kontakt)

いつでも、どんな問題にも対処できる「最適解」はおそらくない。しかし、ときにアーティストの先鋭的な問題意識は、考えもしていなかったことに光を当て、個人や、個人がつくる社会におけるそのつどの問題を乗り越えようと試みることがある。

90年代。社会にはさまざま変化が起き、システムが再編され、それはひとりひとりの個人を離れて機能しはじめた時代。そんななか、写真家のWolfgang Tillmans(ヴォルフガング・ティルマンス)は、自身の身の回りにある日常を撮影して、ある方法で展示しました。彼の方法は一種のブームになり、写真の見せ方として今やポピュラーなものになっています。しかし、その方法に組み込まれていた抵抗のしぐさこそが重要であったと、キュレーターの二人は話します。

《Socks on radiator》1998 © Wolfgang Tillmans, courtesy WAKO WORKS OF ART

西原 後から振り返ると、何か変換点となる出来事が起こる時って、アーティストはその前線にいることが多いなという印象を持っています。9.11の時もそうだったし、今アメリカで問題になっている「ジェントリフィケーション」*1の現場もそうだし、そもそもアーティストの活動自体が時代のフロントに向かおうとする性質があるから、何かが変わる時は、やっぱりそれに直面しちゃうことも多いのではないでしょうか。

*1 ジェントリフィケーション gentrification

「高級化」。再開発や企業の産業設備、商業施設の参入などによって、ある地域の地価が上昇し、それまでに暮らしていた人たちのコミュニティの喪失や変化、アーティストたちが移住を余儀なくさせられる、といった問題がある。

長谷川 どうなるかわからなくても、とにかく目の前の欺瞞を、不平等を、差別を、どうにかしようとするんだと思います。

西原 「ジェントリフィケーション」もその一つですが、ある問題に対して、飛躍のある考え方によるクリエイティブな解決というか、思いもよらない方法でそれを乗り越えるのがアーティストだ、という期待を含んだ捉え方はやはりありますね。そして、実際クリエイティブな解決というのはあるわけで。

長谷川 そうですね。「何度でもやり直せる」という気持ちというか、心の折れなさみたいなものがアートを継続させている気がしています。例えばそうだな、男性ばかり挙げてしまってバランスが悪いんですけど、ヴォルフガング・ティルマンスという写真家がいて。最近だと、哲学者である千葉雅也さんの小説『デッドライン』(2019, 新潮社)の表紙に写真が使われていますね。

《Kubik》2017 © Wolfgang Tillmans, courtesy WAKO WORKS OF ART

《Headlight (f)》 2012 © Wolfgang Tillmans, courtesy WAKO WORKS OF ART

西原 彼も90年代以降の重要なアーティストのひとりですね。

長谷川 80年代からファッション雑誌などで活躍していた人で、90年代の頭にロンドンにやってきて一層人気を獲得していきました。

西原 方法論だけでいうと前回の記事で取り上げた、リクリット・ティラバーニャと同じくらい「流行」した人ですね。

長谷川 彼が画期的だったところは、その展示の方法でした。カルチャー誌さながらに複数の写真を点在させて、壁面全体で構成していく。それも、額装しない剥き出しのままスッと直で壁に貼ったり、クリップで止めてみせたり。この手法は本当に流行るんですよね。

西原 本人のシステムへの異議申し立てが、フォロワーが出てきて、一つの型になってしまう。

Installation view of the exhibition "Today Is The First Day" WIELS, Brussel 2020
© Wolfgang Tillmans, courtesy WAKO WORKS OF ART

《Freischwimmer 221》2012, installation view of the exhibition "Today Is The First Day" WIELS, Brussel 2020
© Wolfgang Tillmans, courtesy WAKO WORKS OF ART

長谷川 ただ、重要なのは、このスタイルがある意味ではその時点でのアートシステムへの抵抗にもなっていた、ということなんです。

西原 展示の方法がシステムへの異議にもなっている?

展示プランを考案するための模型
写真協力:国立国際美術館

長谷川 どういうことかというと、ティルマンスの作品はその構成全体(これをインスタレーションと呼びます)なんですよね。誰かがインスタレーションを構成する写真一点だけをピックアップして買うことはできない。買うときは一括で買わないといけないし、再度展示するときも寸分違わず同じ構成でインスタレーションをする決まりになっている。そういう条件でもなお、欲しいと思う人が、あるいは、そういう条件ごと作品を肯定してくれる人が作品を買うことになる。

これは、アートシステムの内側から、アートシステムに蝕まれないような態度を示している感じがするんです。もちろん、商業的な仕組みとしてのアートシステムはとても強いですから、当初それがチャレンジングな試みだったとしても、一度売れだすと、やがてひとつの「売り方」でしか無くなっていく。でも、ぜんぜん心は折れないんですよね。

Installation view of the exhibition "Affinity" WAKO WORKS OF ART, Tokyo 2014
© Wolfgang Tillmans, courtesy WAKO WORKS OF ART

西原 2000年代に、ギャラリーやアートフェアで、作品の売買がかつてないほど盛り上がっていった。そこで「買いにくい」作品や展示を出すっていうのは作家のキャリアを賭けた「食うか食われるか」みたいな戦いだったりする。その戦いを続けていけるアーティストいうのは本当にメンタルが強いですよね。

とはいえそれも、システムにすぐ回収されてしまうわけで、例えば、2019年のマイアミバーゼルのマウリツィオ・カテランのバナナは、その終着地というか、バナナが完売した時点でその戦いももうとっくに終わっていたんだ、という感慨を抱きました。

長谷川 資本主義でも、今の社会システムでもいいですが、どれだけ足掻いても無駄だよね、みたいな空気感が強いですよね。何か新しい技術を作り出しても、結局いたちごっこじゃん、みたいに思えたりもする。

しかし一方で、今、本当にたくさんの、これまで無視されてきたアーティストが「再発見」されていたり、自分だけのアイデアでつくっていたと思われていた「天才」アーティストが、実は家族や恋人の協力の元で作品を作っていたことがわかってきている。それに素朴にやる気をもらえるんですよね。やれること、増えているなと。同時に、みんなが当たり前だと思っていた「教科書」的な美術史が、あまりにも偏りまくっていることにドン引きしたりもするわけですが。

《paper drop Oranienplatz, e》 2017
© Wolfgang Tillmans, courtesy WAKO WORKS OF ART

西原 点と点で年表にプロットされていたアーティストたちの、その点と点のあいだに、家族だったり、友人だったり、コミュニティだったり、メンターだったりがいるわけで。その「点と線」が美術史に書き込まれる前段階の、キュレーターも含めたアーティストの周りの人々が埋めている時間こそが、美術史の豊かさなんだと思いますね。その辺りをすくい上げていくキュレーションはもっとあって良い。

長谷川 ちょうど4月から1年間、武蔵野美術大学が運営する「gallery αM」というスペースで展覧会のシリーズ企画をするんですが、僕なりの「何度でもやり直してやるぜ」を見せられたらなと思っています。展示は「約束の凝集」というタイトルです。「妥協 compromise」をものすごく前向きに捉えてみたい(com-promiseで約束の凝集という意味になります。英題はHalfway Happyにしてます)。

展示の詳細については https://gallery-alpham.com/

西原 楽しみです!

長谷川 一年間にわたって、5人のアーティストがそれぞれ個展をします。参加作家のうちの曽根裕さんと永田康祐さんが、この展示にあたって「四半世紀」というユニットを結成したんですよね。二人とも藝大で建築を学んだ後アートをやるようになっていて、年齢差がちょうど25歳。なので「四半世紀」。

ふたりが作ったのは大理石でできたパソコンなんですが、これは「石器時代最後の夜」という曽根さんの個展で発表する予定です。遠い過去の「石器時代最後の夜」を具体的に想像しながら、同時に、今も自分たちが「石器時代」の時間のなかにある、ということを考えるために、石器時代の技術と、現代の技術を融合させて、パソコンを作ったんです。

西原 長谷川さんがこの展覧会のタイトルで言っているのは「こんなことやっていても何にもならないと思っても、そう思うことから離れて、何かに挑む」みたいなことで良いのでしょうか? 私は90年代の人間なのか、どちらかというと「無駄なことは何もない」、「撒いた種は全部生えるであろう」という世界観なんですね。

でも、どちらにしても、四半世紀とか、石器時代とか、大きな時間の流れに身を浸してみれば、人間の暮らしは「諦めないで何度でもやる」、「ちょっとした技術の積み重ね」の連続体でしかないのかもしれませんね。……そんなことを先日、キャンプに行った際、炭火で焼いたお肉をフォークを使わずに食べながら思いました。展示、楽しみにしています。

長谷川 別に「90年代」にしばらなくても笑。「無駄なことは何もない」という前向きさも大切だと思います。でもときどきしんどくてそう思えないときもある。まじめに考えるほど、真剣であるほど、「荒地」に辿り着いてしまうことはあると思うんですよね。

そして「荒地」を終着地だと思ってしまう。自分ががんばって辿り着いた場所ですからね。「ゴールに近づいている」ということが「他の人よりも荒地にいる」になってしまう。そこからどうやって折り返して、「それでもやりたいことがあるんだ」と還ってこれるかだと思っていて。僕はそれを「帰還の技術」とかっこつけて呼んでるんです。

  • 長谷川 新

    1988年生まれ。インディペンデント・キュレーター。主な展覧会に「クロニクル、クロニクル!」(2016-2017)、「不純物と免疫」(2017-2018)など。PARADISE AIR2017-2018年度ゲストキュレーター。美術評論家連盟会員。現在、日本建築学会書評委員、日本写真芸術専門学校講師を務める。4月から「約束の凝集」(gallery αM)を開催予定。

  • 西原 珉

    1990年代の東京のアートシーン黎明期にキュレーター、評論家、アートマネージメント、ライターとして活動。2000年にロサンゼルスに移住。臨床心理カウンセリングの大学院を修了し、福祉事務所にて勤務。帰国後、カウンセラーの経験を生かした新たなアートのアプローチを模索している。3月18日よりアーツ千代田3331特別企画展として開催される「アーリー90‘s トーキョー アートスクアット」にてキュレーションを担当。