#ART#CURATION

ART FOR EVERYONE

あなたとアートの関係を示すために

VOLUME.6

美術館に所属せず展覧会を企画し、その実現まで、
作品の読み取りやアーティストとの対話を重ねる「インディペンデント・キュレーター」。
若手ながらも数多くの展覧会を企画している長谷川新と、
90年代の日本アートシーンを第一線で走りながらも渡米、臨床心理士の資格を取り、
新たなアートのアプローチを探る西原珉。
最終回は、当企画の編集もまじえて、
巨大な年月を含み込んだマクロの視点を持ちながら、
個人としての「1日」をさまざまな作品のバリエーションによって取り上げた
アーティスト・河原温について、そして、
これからの「あなたとアートの関係」を探っていきます。

Photography by Yuri Manabe [portrait]
Edit by Yoshikatsu Yamato (kontakt)

― 前回の対談から、今回のビデオ通話までの期間で、西原さんは、318日に始まったアーツ千代田3331での企画展「アーリー90‘s トーキョーアートスクアッド」が休場、長谷川さんは、425日からの会期で予定されていたgalley αMでのプロジェクト「約束の凝集」が延期になるなど、さまざまな対応に追われていたかと思います。

西原 はい。COVID-19 がアート界に与えた影響は大きいですね。それは、なんといってもアートが「直接」のメディアだからだと思うんです。「直接」だからこそ見た人に与えることができるエネルギーを使ってきたキュレーターは、今後、そのエネルギーをどうやって他の形で伝えていくのか考えていく場面にさしかかっています。

長谷川 「どうやって展覧会をするか?」という問いは、もちろん手放していないのですが、同時に、経済的困窮といったファンダメンタルな問題も無視できない。あと、これは言っておきたいのですが、コロナ以前の問題って、全然消えてなくなったりしていませんよね。むしろ、むき出しになっている。

西原 アートとの関わり方の模索がさまざまあるなかで、長谷川さんは最近、予定していた展覧会をベースとしたラジオを始めているんですよね。

長谷川 そうです。

西原 ラジオはメディアとしてシンプルなぶん可能性を感じますが、どんな意図があるんでしょうか。

長谷川 ラジオは、落ち着きのない人が家で楽しめるものなんじゃないかなと思っています。僕のことなんですが、映像はずっと見れないんです、ソワソワしちゃって。展覧会「約束の凝集」は延期になっていますが、違う速度とリズムでスタートを切れたら良いなと思い、本来ならば、福尾匠さんのエッセイの連載と展覧会が並走するかたちを考えていたんですが、エッセイのみを本来のスケジュール通り公開し始めました。「gallery αM」のTwitterで発信しています。

西原 なるほど。

長谷川 展覧会が延期になっても、アーティストがいなくなったわけではないし、つくったり考えたりするのをやめてるわけでもないですよね、当たり前なんですけど。なので、できることからやろうと。西原さんはこれまでの経験と照らし合わせて、今をどう考えているんですか? これまでにも何度も「危機的状況」はあったと思います。

西原 いちばんに覚えているのは9.11のときですね。第一は、アーティストとのコミュニケーションをとることでした。恐怖感と不安のなかで、NY在住のアーティストと、今日はこんな絵を描いたんだ、とか、これからのことについて話しあっていた。まだ、スマホ以前の時代だったから会話です。それも電話が通じる人だけですが。NYにいられなくなってカリフォルニアに来たアーティストたちとは、展覧会をしたりもしました。イラクが爆撃されたとき、ハリケーン、山火事があって、そのたびに集まって話しては、何らかの行動を示してきた。けれど、今回は、一つの場所で会って話し合いながら突破口を探ることが難しくなっていますよね。緊急事態に遭遇したとき、初めは恐怖や混乱が当然の反応として出てくるのですが、アーティストはそこから思いがけない側面を切り出して、問題について再考を促します。これまでは、その動きが他の業界にも伝播していったと思うのですが、今、この事態に際しては、そのリフレーミングや、発表の場を確保することが難しい段階ですね。

長谷川 これまでの方法論が、どれだけ「集まること」に紐づいていたんだろうと思わされますよね。物や人間がそこにある、という有無を言わせない「直接」の説得力を、僕はまだ求めてしまっていて、オンラインに全振りする気にはなれないのですが、すでに、オンラインを含めさまざまなアクションが行われています。こうした移行も、既にあった潮流が激化したともいえるわけですが。

西原 緊急時に「なんで今それをやるのか」とか「なんでやらないのか」と感じていたアーティストの行動が、後から考えると非常に適切で、その直観に畏れいる、ということはありますよね。

長谷川 そうですね。90年代に西原さんが関わっていた「THE GINBURART(ザ・ギンブラート)」や、あるシステムのなかで発表を行えずにいたアーティストが展覧会を行えるオルタナティブなスペース「レントゲン藝術研究所」に関わったことって、今の状況への対応を考えることと、動機は同じだと思うんです。アーティストがやるべきだと考えていることがあって、それが不可能だとしたら、どのように実現可能なのかを考えていく。

西原 その通りだと思います。

長谷川 僕は、社会と芸術とのあいだにズレがある限り、キュレーターは必要だと思っています。表現をしたい人が完璧な方法で表現できて、表現を見たい側がそれを問題なく享受できるならばキュレーターは要らない。でも、現実はそうなってない。ぜんぜんなってない。でも人はつくることをやめられない。そこは間違いないのかなと。だから、やることはいっぱいありますよね。

西原 本当にそう思います。表現の翻訳者、ケアテイカー、社会とのメディエーターとしての「キュレーター」ですね。ですが、やはり、展示という形式は重要。展覧会ができないとなると、まずはオンライン、となるわけですが…。

長谷川 オンラインでも届けられない層を同時に考えていかないといけないなと思っています。

西原 受け手側にどう届けるかを考える、これはキュレーターの態度として一貫していますよね。私も、展覧会が見せられずにいて、ここに来て下さい、という「現場」がなくなってはいますが、一方で、さまざまに分業化され、生活の外部で行われていたアートが、家のなかで日々実践されてもいますよね。たとえば、子どものことを考えたとき、絵や音楽は「習い事」となっていたのが、家での生活に組み込まれて親と子どものコミュニケーションのきっかけになっていたりする。

長谷川 楽器だったり、プラモデルだったり、塗り絵や筋トレでもいいんですが、ただ受動的ではいられない何か、能動的な疲労を求めているという感じがあります。

西原 そうそう。動画を工夫して撮ったり。

― 西原さんが福祉事務所で働いていたときのお話を思い出しました。カウンセリングを受けに来る方のちょっとした表現行為を掬い上げることが大切で、どんな服を組み合わせて着ているのか、髪型のアレンジ、どんなカップでコーヒーを飲むようにしているのかなど、生活のなかで人は表現行為をしていると。

西原 そうした表現に注目できる機会になったら良いと思うんです。そういえば、「アマビエ」って知ってますか? 日本の妖怪で、疫病の流行を予言するとか、それを絵に描いて人に見せると疫病が収まっていくという言い伝えがあるのですが、今、SNSなどでいろんな人がアマビエを描いて投稿をしていているんです。アマビエの和菓子や、LINEスタンプができたりもしている。

『肥後国海中の怪』 (京都大学付属図書館所蔵)

長谷川 タイムラインでちらちら見かけていましたが、そういうことだったんですね。面白いです。

西原 人魚っぽくもあって、くちばしもあって、ロングヘアーで、絶妙な妖怪ですよね。さすが、水木しげるさんも描いただけのことはある。私のところにも何人かが描いたアマビエが届いているんだけど(笑)。こういうときに、それまで興味を持たれていなかった歴史的なものごとが発掘される経緯は興味深いですね。

長谷川 共通の物語というか、それ以前とは違うけど、みんなで共有している物語がやっぱり出てくるんだなあと。

― 熱心に信じるのではなくて、これを共通のものとして各々がいろんなテイストでイラストを描き、それを互いに見て感想を言い合ったりして楽しむことでコミュニケーションがうまれているような。

西原 離れていてもできる、SNSの「バトン」みたいなもの、たとえば、うたつなぎや、絵しりとりや本の紹介なども「つながりの確認」になっているのかもしれません。

長谷川 マスクがあっという間にファッションの一部になったのも心強いなあと思わされましたね。

西原 誰もが持っている、ものづくりへの気持ちや、日常に楽しみを求める魂が呼び戻されたような感じがします。「日常の楽しみ」。ファッションって、こういうことなのかもしれないですね。しかし、生きてきたなかで、これほど行動様式や時間の使い方が変わることはなかったですものね。でも、今回の事態でも思ったのですが、アーティストのなかには、時間の使い方や、思考のタイムスケールがそもそも独特だったりする人もいて、即時的な反応とは違う動きもあるんじゃないでしょうか。アーティストの存在って、別の時間の流れの人たちがいてくれることに安心する、という意味もあるかもしれません。

長谷川 アーティストのなかには、「遠回りのプロフェッショナル」がたくさんいますよね。遠回りしてるのに誰よりも早くゴールしてたりするし。なんなんだと。コロナの状況下では、河原温を真っ先に思い浮かべてしまいます。

西原 そうですね。そうだ、河原温の話をしましょう。河原さんは、メキシコに住んだのちに、ニューヨークを拠点に活動していたアーティストです。グッゲンハイム美術館で個展を行うなど世界的に有名なアーティストの一人で、「コンセプチュアル・アート」と呼ばれるようなジャンルの作家です。初期には具象的な絵画作品もありますが、代表作は《Today》というシリーズで、通称「日付絵画(デイト・ペインティング)」と言われる作品。

河原温《MAY 13, 1971 -Todayシリーズ (1966-2013) より》
豊田市美術館蔵 ©One Million Years Foundation

河原温《20 JUL.1985 -Todayシリーズ (1966-2013) より》
東京都現代美術館蔵 ©One Million Years Foundation

河原温《NOV.21.1985 -Todayシリーズ (1966-2013) より》
東京都現代美術館蔵 ©One Million Years Foundation

デイト・ペインティングはその日の新聞が敷かれたオリジナルボックスに保管された。

― これって手描きで精巧に書かれているんでしたよね。絵自体というよりは、そのプロジェクトの総体が作品、って捉えるといいのでしょうか。

西原 デイトペインティングの制作工程が海外の美術雑誌で紹介されたことがあるのですが、実はすごく緻密な工程を経て作られるんです。それはさておき、河原さんは、宇宙や天文学に並々ならぬ関心を抱いて研究もしていて、その思考のさきには、天体の運行から生まれた「1日」という単位としてのデイトペインティングがある、と捉えています。宇宙の膨大な時間の対極に、河原さんという一人の人間が存在している。たとえば、《I Am Still Alive》(私はまだ生きている)というシリーズもありますね。ある一定期間、河原さんが滞在先の様々な国から美術館や個人宛てにまだ生きている、という電報を毎日送り続けたという。その電報が、というより、河原さんが毎日生きていることが作品なんじゃないでしょうか。

― 1日って、地球が一周自転する時間でしたよね。1日1日が過ぎていくことを、個人の日常として、あるいは、すごくマクロな宇宙的なダイナミズムから捉えることもできる。

河原温《I Am Still Alive シリーズ (1970-2000)より》 豊田市美術館蔵 ©One Million Years Foundation

河原温《岡崎和郎氏に送られた 83 通の絵葉書 “I GOT UP”シリーズ (1968-1979)より》1975 年
東京都現代美術館蔵 ©One Million Years Foundation

《岡崎和郎氏に送られた 83 通の絵葉書 “I GOT UP”シリーズ (1968-1979)より》(部分) ©One Million Years Foundation

長谷川 デイトペインティングは、まっすぐ遠回りしてる感じがすごいですよね。

― 《I GOT UP》という、河原温の起床時間を、彼の滞在先のポストカードなどにスタンプして送るものもあります。

西原 また、「百万年」シリーズは100万年分の年数をすべてタイプしていくという、気が遠くなるような時間を相手にした作品です。70年代初めに「過去編」「未来編」として制作されたのですが、時を経て、ドクメンタやロンドンでは、そこに記された年数を24時間ひたすら朗読するというプロジェクトも実現しました。「百万年」シリーズは《I Am Still Alive》のように個人の毎日と関わる作品との補完関係にあるもので、「百万年」を実際に見てみると、そこにある宇宙的時間に浮遊したくなるのと同時に、個人の11日が強調されて見えてくる、という経験をすると思います。

河原温 《百万年-過去》 1970-1971年 豊田市美術館蔵 ©One Million Years Foundation

― 「過去編」には「For all those who have lived and died(生きて、死んでいったすべての者たちのために)」、「未来編」には「For the last one(最後の1人のために)」という言葉があるんでしたね。他の作品としては、その日に会った人の名前をひたすらに記録した《I MET》や、《I READ》は、その日に読んだ新聞をファイリングしたものです。いずれもシンプルなことの執拗な繰り返しによって成立する作品ですが、僕はこれらの作品を知ったとき、かえって1日のかけがえのなさだったり、日々の細かな差異のほうに気が向きました。

西原 長谷川さんの敬愛するジョン・バルデッサリも、トレンドに流されず、実に長い時間のなかで自分のすべきことを考え、行った作家だと思いますね。ランドアートの作家であるマイケル・ハウザーも、自分の死後、長い時間がたって自分の作品が遺跡として発見されたときを想定していたという話があったり。

長谷川 アーティストと付き合っていくと、というか、生きていると、展覧会以外の場所のほうがめちゃくちゃ面白かったり重要だったりしますよね。制作もそうだし、いろんな交渉や葛藤やブレイクスルーが連続して、とても地味なんだけど、とても興奮する一次拠点、生産拠点です。でも僕は、それでも展覧会をちゃんと考えたいなと思っています。展覧会もまた、単なる情報の選別の空間ではなくて、何かが生み出される場であるべきだと。

西原 そうですね。繰り返しにはなりますが、アーティストは、今起きていることに直面して行動する反射神経をさまざまに発揮する一方で、作品づくりにおいては、長いスパンでものを考えている。そうした考えは、そもそも展覧会だけにとどまるものではない、ということがありますね。

長谷川 その部分は強調したいですね。

西原 マイクロな動きと、同時にマクロなスパンで考えるようなことができていければいいなと思っています。

― 今回の河原温をはじめ、これまでの連載で取り上げた作家は、今だからこそ深く考えてみたい気がします。リクリット・ティラバーニャの作品は、展示に訪れた人に食事を振る舞うというものでした。それを作品として提示したことは、あらためて、さまざまな出自の人と人が会って会話をして、意見をとりかわすことについて考えさせますし、ヴォルフガング・ティルマンスが、身の回りの日常にある、なんということもない場面を撮影し、それを商業的な流れに即座に回収されないようにした方法論なども、今だからこそ感じ入るようなところや際立ってくるポイントがあるような気がします。連載のタイトルである、「あなたとアートの関係」ということでいえば、長谷川さん、西原さんを含んだ、読者のみなさんでもある「あなた」は、今、大きな事態だけでなく、大小さまざまな悩みや問題のなかにいらっしゃると思うのですが、こうして日々変わっていく視点からも、アートというものはそのつどそのつど、際立つ部分を変えて、発想を転換させてくれるように思うんですね。

西原 そうですね。私は臨床心理士としても、さまざまな状況に置かれている人たちと日々連絡をとっていますが、自分とアートとの関係を考え直さなければならないように感じています。その繰り返しというか。

長谷川 それぞれの現場で培われている技術や、突拍子もないようなアイデアを、ひとつひとつ大切にしていけたらなと思っています。その全部が、次の時代に関係していくはずなので。

  • 長谷川 新

    1988年生まれ。インディペンデント・キュレーター。主な展覧会に「クロニクル、クロニクル!」(2016-2017)、「不純物と免疫」(2017-2018)など。PARADISE AIR2017-2018年度ゲストキュレーター。美術評論家連盟会員。現在、日本建築学会書評委員、日本写真芸術専門学校講師を務める。gallery αMでの1年に渡る企画「約束の凝集/Halfway Happy」でゲストキュレーターを務める。

  • 西原 珉

    1990年代の東京のアートシーン黎明期にキュレーター、評論家、アートマネージメント、ライターとして活動。2000年にロサンゼルスに移住。臨床心理カウンセリングの大学院を修了し、福祉事務所にて勤務。帰国後、カウンセラーの経験を生かした新たなアートのアプローチを模索している。キュレーションを担当する特別企画展「アーリー90‘s トーキョー アートスクアット」は、アーツ千代田3331にて2020年7月14日までを予定。