自分の杖 / 文・高橋源一郎
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自分の杖 / 文・高橋源一郎

Essay by Genichiro Takahashi
Illustration by Mari Oogo

 鶴見俊輔さんは1922年(大正11年)に生まれ、2015年(平成27年)に93歳で亡くなった、日本を代表する哲学者・評論家であり、また単なる「考える人」を超えた社会運動家でもあった。父・祐輔は戦前から長く議員をつとめ、戦後には厚生大臣になった。母・愛子は傑物政治家、震災復興を指揮した東京市長として知られる後藤新平の娘であり、鶴見さんは名門に生まれた子どもだったのだ。だが、鶴見さんは、幼い頃から不良となり学校にはほとんど通わず、旧制小学校では退学処分、旧制中学校でも中途退学することになった。その後、父のはからいでアメリカに留学し、実は天才的な能力の持ち主であったことがわかった。1939年16歳でハーバード大学に入学、日米戦争勃発と共に日本に戻った。そこから、彼の長い「考える人」としての華々しい生涯が始まるのだが、もちろん、書くスペースはない。

鶴見さんは、晩年、「もうろく帖」というノートを書きつづけた。それは、もともと発表するためのものではなく、「自分」のための覚書だった。鶴見さんは、こう書いている。

「七十に近くなって、私は、自分のもうろくに気がついた。

 これは、深まるばかりで、抜け出るときはない。せめて、自分の今のもうろく度を自分で知るおぼえをつけたいと思った。

『もうろく帖Ⅰ』は、一九九二年二月三日にはじまる。私は六九歳八カ月だった」

 いま、この文章を書きつつあるわたしは、一九五一年生まれで、いままさに六九歳八カ月になる。

 記念すべき一頁目はこう。

一九九二年

二月三日

老眼になり見えてくるもののみを

まことに見んとこころを定む

島田修二

 こんなふうに、鶴見さんは、多くても月に数度、ときには、数カ月の時間をあけて、ノートに短いことばをつらねた。ほんの数行の引用が多く、そのことばへの感想が付け加えられることも、また、そのとき思ったことの断片の場合もあった。そのどれもが短く、簡潔で、ただ、どんなときも中断されることなく、鶴見さんのノートは書きつづけられた。一年で十頁に満たないことも多かったのだ。

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 それにしても「もうろく帖」ということばに驚く。晩年、人は身心共に衰えてゆくが、「心」の衰えには気づかない。それが「もうろく」の実態でもある。けれども、誰よりも明晰な知性の持ち主であった鶴見さんは、自分の衰えに気づき、それこそが晩年に、取り組むべき課題であるとした。人間が衰えてゆくこと、誰もが通らなければならないその必然を、自分を対象にして見据えようとしたのである。

『もうろく帖Ⅰ』から、いくつかの断片を紹介する。

 一九九二年。

一〇月二四日

よの中のおもてに立ちしこともなく

過ごし来ぬるもやすけし今は

岡麗(一八七七―一九五一)

右は一九三五年、五八歳の歌

秋山加代『山々の雨』一九九二年

文藝春秋

 一九九五年。

某日

おかあさん

人間って

遊べるからおもしろいねえ

はぎわらゆうすけ(三歳)

『母の友』一九九二年一〇月号

選 亀村五郎

え 柳生弦一郎

同年。

一一月五日

おくれて生きよう。

一九九六年。

一月一四日(日)

しばらく人間になれて

おもしろかった。

 同年。

お母さん育ててくれてありがとう

がんに破れし吾子は九歳

(志木市)釘宮由紀子

佐佐木幸綱 選 

 鶴見さんは、こんなことばをぽつりぽつり、滴が葉からこぼれ落ちるように、ときどきノートに書いた。このことばの向こうに、このことばを文字として記した人の内面を見てみたい、と思った。自分が死に近づくという認識がなにを生むのか。そのことを、強く意識しながら、鶴見さんは、自分の生涯をはるかに見渡しているような気がする。「よの中のおもて」に、ついに一度も立つことなく、この「よ」を去る、無名の人。まだ、ほとんど生きてはいない故にこそ、子どもから放たれる、深奥にまで届くことば。そのことばの間を、ゆるやかに歩きながら、鶴見さん自身のことばももれる。しかし、「しばらく人間になれておもしろかった」といえるような人間に、わたしはなれるだろうか。そのことを思って、このことばの書かれた頁を開いたまま、わたしは、しばし目を閉じていた。

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『もうろく帖Ⅰ』は一九九二年から二〇〇〇年までに書かれたノートをおさめた。その刊行からおよそ七年後の、二〇一七年二月、二〇〇一年から二〇一一年までのノートをおさめた『「もうろく帖」後篇』が刊行された。どちらも手帖大の大きさだ。後篇の中から、また、ことばを引用する。ときの流れははやい。とりわけ、老いた人間にとっては。

二〇〇三年六月二六日

家の近くによだれかけをかけた地蔵さんがいる。ながい年月にこわれて、表情はなくなり、のっぺらぼうだ。そのように、私は自分を失い、のっぺらぼうとして、他の私とまざって、野の隅に立つ日が来る。

二〇〇九年六月一八日

私の人生のおおかたは思い出になった。

二〇〇九年六月二〇日。

しかし、太郎(筆者注。鶴見さんの子息)と生きた私の人生は、まったく新しい人生だった。

二〇一〇年八月一五日

今、書いている文章が公刊されることがないとわかっていても平靜。これが文字を書く本来の心境だ。

二〇一一年三月二二日

たえずたんがあがってきて、のどをふさぐ。あたりまえのことだ。八八歳。

三月には、卒中で死ぬ人が多いと太郎、言う。ころばないことを理想として、今日一日を生きよう。

二〇一一年五月二〇日

自分が遠い。

そして、鶴見さんがノートに記したことば、次が最後になった。

二〇一一年一〇月二一日

私の生死の境にたつとき、私の意見をたずねてもいいが、私は、私の生死を妻の決断にまかせたい。

このことばが最後になった理由は、頁をめくるとわかる。編集者が添えた、次の文章が、この本をしめくくっている。

〔二〇一一年一〇月二七日、脳梗塞。言語の機能を失う。受信は可能、発信は不可能という状態。発語はできない。読めるが、書けない。以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、翌年四月に退院。帰宅を果たす。読書は、かわらず続ける。

 二〇一五年五月一四日、転んで骨折。入院、転院を経て、七月二〇日、肺炎のため死去。享年九三歳。〕

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 鶴見さんは、その最後の三年半ほどをどんなふうに過ごしたのだろう。いや、なにを考えていたのだろうか。発信することが不可能であると、この希有な知識人が知ったとき、どう思ったのだろう。もしかしたら、鶴見さんは、『もうろく帖』や『「もうろく帖」後篇』のつづきを、人知れず、書きつづけていたのかもしれない。なぜなら、鶴見さんの、このノートは、誰かに伝えるためにではなく、「自分」という、自分にとっての、終生ただひとりの友人のための「杖」として書かれてきたものだからだ。

 どんな状態になろうと、恐れることはない。鶴見さんは、そういっているように、わたしには思える。なぜなら、わたしたちはみんな、自分で自分のための「杖」を用意することができるのだから。

鶴見俊輔さんの『もうろく帖』、『「もうろく帖」後編』は、

京都の編集グループ〈SURE〉ホームページより購入できます。

  • 高橋源一郎

    1951年生まれ。81年に『さようなら、ギャングたち』で群像新人長編小説賞優秀作、88年『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、2002年には『日本文学盛衰記』で伊藤整文学賞、12年『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。小説のほか『誰にも相談できません みんなのなやみ ぼくのこたえ』や、20209月には『たのしい知識―ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』を朝日新書より刊行。